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朝鮮人強制連行を考える その一 

「朝鮮人強制連行」という言葉は、教科書問題や、政治家の歴史認識問題、在日韓国・朝鮮人の指紋押捺、地方参政権、慰安婦問題など、朝鮮を巡る問題で必ず持ち出されてきた。

そして教育では当然のように、日本軍は朝鮮人を強制連行して働かせたなどと教えられてきた。日本が「朝鮮人の強制連行など無かった」などと言えば猛烈な批判にあうであろう。


では、果たして朝鮮人強制連行は本当にあったのか。
多くの著書やブログなどで既に検証されていると思うが、復習ということでもう一度やってみたい。

確認になるが、朝鮮人強制連行とは、一般には国家総動員法に基づいて昭和14年に策定された「朝鮮人内地移送計画」によって、朝鮮人の朝鮮半島から日本内地への集団的な移送を指す。これを労務動員という。ちなみに戦前・戦中には「強制連行」という言葉は存在していない。(初出は昭和40年出版の朴慶植著『朝鮮人強制連行の記録』であるとされている)

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まず戦後韓国は、戦中期に行われた朝鮮人動員に対し、どのような考え・要求をしてきたのか。昭和26年10月20日に行われた日韓国交正常化交渉における「財産請求権委員会」で、韓国側が第一回会合において日本側に提出された「対日請求権要綱」のなかの第五項を見てみる。

(5)韓国法人または韓国自然人の日本国または日本国民に対する日本国債、公債、日本銀行券、被徴用韓国人の未収金、補償金およびその他請求権の返還請求

(a)日本有価証券
(b)日本系通貨
(c)被徴用韓国人の未収金
(d)戦争による被徴用者の被害に対する補償
(e)韓国人の対日本政府請求恩給関係
(f)韓国人の対日本人または法人請求



見てわかる通り、「強制連行」という文字はひとつも見つからない。韓国が行った請求は、”強制連行について”ではなく”徴用について”である。

「被徴用韓国人の未収金」というのは、被徴用者に支払われるはずであった、未払い給与のことである。未払いになっている給料の支払いを求めているということは、徴用自体を不法としていたわけではないということである。徴用が不当なものであったなら、「未収金」を求めるのは当然おかしな話なのである。

仮に強制連行がなされていたとしたら、それに対する請求がなされているべきだが、見る限りではそれがなされていない。給与を求めていたということは、それがしっかりとした労役であったということである。

日韓国交正常化交渉が行われたのは、戦後6年目であり、戦争の記憶が新しい頃だろう。その6年目に行われた日本との交渉で、韓国政府が「強制連行」について明記しなかったということは、特筆すべきである。本当に「強制連行」が行われていたとすれば、韓国政府が明記しない訳が無い。そのような事実が無かったからこそ、「対日請求権要綱」の中に「強制連行」の文言が入らなかったのである。

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「対日請求権要綱」の文中に「徴用」という文字があるが、徴用の意味は、

戦時などに国家が国民を強制的に動員して、兵役以外の一定の業務につかせること。(日本では1939年(昭和14)国民徴用令が制定され、敗戦まで行われた。)



である。ちなみに朝鮮人に対する徴用(強制力を伴ったもの)は、昭和19年9月になってからである。徴用は強制力を持ち、拒否すれば罰則が設けられていた。

徴用は上記の通り国民に対し、等しく課せられたものであるため、当然日本人は当然徴用の対象に入り、労働の義務を果たした。これをもって強制連行とするならば、当時の日本人の多くが強制連行の被害者となってしまう。


参考

秦 郁彦 編『昭和史20の争点』

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左翼連中よ。深く反省せよ! 

毅然とした態度で無実訴え 梅沢元守備隊長

「自決命令は出していない」。9日、大阪地裁で本人尋問が始まった沖縄の集団自決訴訟。住民に集団自決を命じたと記述された座間味島の元守備隊長、梅沢裕さん(90)は、毅然(きぜん)とした態度で“無実”を訴えた。確証がないのに汚名を着せられ続けた戦後60余年。高齢を押して証言台に立ったのは、自分のためだけではない。無念のまま亡くなったもう1人の元守備隊長と旧日本軍、そして国の名誉を守りたい一心だった。
 地裁で最も広い202号法廷。梅沢さんはグレーのスーツに白いシャツ姿で入廷した。終始しっかりとした口調で尋問に答え、焦点となった集団自決前の状況について問われると、「(村民に対し)弾はやれない、死んではいけないと言いました」と語気を強めた。
 梅沢さんにとって決して忘れることのできない出来事をめぐる証言だった。米軍が座間味島に上陸する前日の昭和20年3月25日。「あの日、村民5人が来た場面は強烈な印象として残っている」という。
 大艦隊の艦砲射撃と爆撃にさらされ、本格的な米軍との戦闘に向けて山中の陣地で将校会議を開いていた夜、村の助役ら5人が訪ねてきた。
 《いよいよ最後の時が来ました。敵が上陸したら逃げ場はありません。軍の足手まといにならないように老幼婦女子は自決します》
 助役らは切羽詰まった様子でそう言い、自決用の爆薬や手榴(しゆりゆう)弾などの提供を求めた。驚いた梅沢さんは即座に断り、こう言葉を返したという。
 《自決することはない。われわれは戦うが、村民はとにかく生き延びてくれ》
 戦後、大阪府内で会社勤めをしていた昭和33年、週刊誌に「梅沢少佐が島民に自決命令を出した」と報じられた。そして、戦後まもなく発行された沖縄戦記『鉄の暴風』(沖縄タイムス社)で隊長命令説が記述され、沖縄の文献などに引用されていることを知った。
 「お国のために戦ってきたのに、なぜ事実がねじ曲げられるのかとがく然となった。屈辱、人間不信、孤独…。人の顔を見ることが辛く、家族にも肩身の狭い思いをさせた」
 転機が訪れたのは57年。戦没者慰霊のため座間味島を訪れた際、米軍上陸直前に会った5人のうち、唯一生き残った女性と再会。戦後、集団自決は隊長命令だったと述べていた女性は苦しみ続けた胸の内を吐露し、「隊長は自決してはならんと明言した」と真相を証言してくれた。
 さらに62年、助役の弟で戦後、村の援護係を務めた男性が「集団自決は兄の命令。(戦傷病者戦没者遺族等援護法に基づく)遺族補償を得るため隊長命令にして申請した」と述べ、梅沢さんの目の前で謝ったという。
 「彼から『島が裕福になったのは梅沢さんのおかげ』と感謝もされた。ようやく無実が証明され、これで世間も治まるだろうと思った」
 だが、隊長命令説は消えなかった。大江健三郎氏の著書『沖縄ノート』など多くの書物や教科書、さらに映画などでも隊長命令説が描かれた。梅沢さんはいう。
 「戦争を知らない人たちが真実をゆがめ続けている。この裁判に勝たなければ私自身の終戦はない」

・引用

産經新聞 2007年11月9日付記事">2007年11月9日付記事
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戦後から60年以上無実の汚名を着せられてきた、座間味島の元守備隊長、梅沢裕さんの怒りと悲しみはいかばかりか。

梅沢さんは、軍による強制はあったと、反日・自虐教育で教えられ、それを妄信している国民の大半を敵に回し、自身も御高齢であったにもかかわらず、仲間や、軍、そして日本の名誉を挽回すべく立ち上がった。この意味は大きい。


「お国のために戦ってきたのに、なぜ事実がねじ曲げられるのかとがく然となった。屈辱、人間不信、孤独…。人の顔を見ることが辛く、家族にも肩身の狭い思いをさせた」
「戦争を知らない人たちが真実をゆがめ続けている。この裁判に勝たなければ私自身の終戦はない」
梅沢さんの言葉が胸に残る。

日本国民は、深く反省すべきだ。全て軍の責任、国の責任と決めつけ、無実の人を追いつめ苦しめてきた事を。

正義の判決が下る事を願う。

フィリピン独立戦争に命をかけた日本人 

好評だったので、戦前日本を知る手がかりとなる逸話をもう一つ。『教科書が教えない歴史』シリーズから。

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 フィリピンの国名の由来は、十六世紀末スペイン皇太子フィリップの名前をとったものです。フィリピンは三百年におよぶスペインの苛酷で巧妙な植民地政策により、言語や民族の文化、宗教までも失いました。国名だけでなく、ほとんどの人が名前もスペイン流に改名して現在に至っています。

 当時の世界は、白色人種によるアジア・アフリカ争奪戦の時代でした。アメリカはフィリピン独立を支援するとしてスペインと米西戦争を起こします。フィリピン独立軍もアメリカを支援し、アメリカが勝利しましたが、勝利したアメリカはスペインに代わってフィリピンを植民地としただけでした。今度はアメリカを相手に独立戦争が始まります。

 当時三十三歳のフィリピン独立軍総司令官リカルテは、外務長官を日本に派遣し、武器援助を求めました。アメリカからは日本の外務省に、武器援助をしないようにと圧力がかけられましたが、宮崎滔天、頭山満らの尽力によってフィリピンのためにと武器払い下げの決定を下されました。

 そして多くの武器弾薬を乗せた布引丸が長崎から出向します。船には、独立戦争をともに戦おうという日本人の義勇隊三人が同行していました。しかし、布引丸は出港二日後に台風に遭遇し沈没してしまいます。沈没しかけた布引丸の船長 石川伝は、義勇隊の林正文にこういったといいます。

「私は船長だから最期まで残る。しかし、義勇隊はここから逃れて、この様子を独立軍に知らせてくれ」

 しかし、林は「この船はただの貨物船ではない。フィリピン同胞の運命をかけた貨物船だ。このままにはできない」と言い船と運命をともにしました。救命艇に乗り移った船員や義勇隊員だけがイギリスの船に助けられました。

 結局日本からの武器がフィリピン独立軍の元に届くことは無く、リカルテ率いる独立軍はアメリカに敗れます。リカルテはグアム島に流され、その後香港に追放されます。それでもたった一人で秘密結社をつくり、新聞を発行します。その後日本で長い亡命生活を送ります。一九四一年(明治十六年)、日本の戦争遂行にあわせフィリピン独立を支援することになり、日本軍に同行したリカルテは、七十五歳にしてようやく祖国に足を踏み入れ、戦いの中で倒れます。

 そのフィリピンが正式に独立するのは一九四六年のことです。一九七八年の独立記念日、当時のマルコス大統領は、たくさんの日本人を招待し独立功労者という最高の栄誉を与えました。


この人たちは、一八九九年(明治三十二年)、フィリピン独立戦争支援に向かう途中沈没した貨物船布引丸の乗組員の子孫たちでした。



参考・引用
『教科書が教えない歴史』藤岡信勝 自由主義史観研究会 

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世界の感動を呼んだ佐久間艇の悲劇 

1910年(明治43年)4月15日、広島湾沖で潜水訓練中の潜水艦が遭難する事故が起きました。海水が潜水艦の内部に入り込み、後ろに大きく傾き海底に沈んでしまったのです。艇長の佐久間勉と乗組員13人は、艇を浮上させようと排水などの手段を尽くしましたが、成功しません。やがて、乗組員全員が呼吸困難のため窒息死するという痛ましい事故でした。 日本海軍が初めて潜水艇を保有したのは、日露戦争が終わった1905年(明治38年)秋の事でした。潜水艇とは潜水艦の小さなものでした。六号艇とも呼ばれていた佐久間艇は全長22mで、世界最小のものでした。この頃の潜水艇は、構造的にも不備なところが多く、技術においても未熟な点があったのでしょう。

 数日後、佐久間艇は引き上げられました。潜水艇の遭難事故はヨーロッパでも度々起きていました。そのとき、引き揚げられた艇の扉を開けると、そこに多くの乗組員の遺体が群がり、乱闘のあとさえあったということです。何とかして助からんために、水明かりのするハッチに殺到していたのでしょうか。 ですから、関係者たちの間では佐久間艇もそのような状況かもしれないと、思われていました。 

ところがハッチを開けると、艦長の佐久間は司令塔で指揮をとるままに息絶え、舵取はハンドルを握ったまま、各々自分の持ち場を離れずに絶命していて、とりわけ取り乱した様子が無かったというのです。さらに、佐久間は苦しい息の中で遺書を書き残していました。その遺書には、部下を死なせてしまった罪を謝り、部下が最後まで沈着に任務を尽くしたこと。また、この事故が将来、潜水艇の発展の妨げにならないこと、さらに沈没の原因とその後の処置について書き、最後に明治天皇に対し、部下の遺族の生活が困窮しないように懇願していました。
 
死の直前に、取り乱さないばかりか、後世のために遺書を記していたことは驚きでした。
 
 国内のみならず欧米各国においても、この事件について新聞や雑誌が大きく取り上げました。イギリスの新聞『グローブ』紙は「この事件で分かることは、日本人は体力上勇敢であるばかりか道徳上、精神上にもまた勇敢であることを証明している。今にも昔にもこのようなことは世界に例がない」と驚嘆しました。また、各国の駐在武官は、詳細な報告を本国に伝えるとともに、海軍省を訪れて弔意を表明しました。これらは通常の外交儀礼をはるかに超えたものと言われます。
 明治の詩人である与謝野晶子は、佐久間を悼んだ短歌十二首を歌いました。
 
「瓦斯に酔ひ息ぐるしくとも記おく沈みし艇(ふね)の司令塔にて」

「武人(もののふ)のこころ放たず海底の船にありても事とりて死ぬ」


 明治天皇からは、遺族にお見舞い金を届けるという特別のはからいがとられました。佐久間の遺書に応えたことになります。

また、海軍省と朝日新聞によって義援金の募集が行われ、現在の価格では億単位になる56,000円のお金が全国から寄せられました。
 
 この事件は、今では語られることはなく、佐久間勉の名前を知る人は殆どいません。しかし、当時は国内のみならず、世界の人々に感動を与えたのでした。
 




佐久間艇長の遺書




小官の不注意により
陛下の艇を沈め
部下を殺す、
誠に申し訳なし、

されど艇員一同、
死に至るまで
皆よくその職を守り
沈着に事をしょせり

我れ等は国家のため
職に倒れ死といえども
ただただ遺憾とする所は
天下の士は
これの誤りもって
将来潜水艇の発展に
打撃をあたうるに至らざるやを
憂うるにあり、

願わくば諸君益々勉励もって
この誤解なく
将来潜水艇の発展研究に
全力を尽くされん事を

さすれば
我ら等一つも
遺憾とするところなし、

 

沈没の原因

ガソリン潜航の際
過度探入せしため
スルイスバルブを
締めんとせしも
途中チエン切れ
よって手にて之を閉めたるも後れ
後部に満水せり
約二十五度の傾斜にて沈降せり

 

沈据後の状況

一、傾斜約仰角十三度位
一、配電盤つかりたるため電灯消え
電纜燃え悪ガスを発生
呼吸に困難を感ぜり、

十四日午前十時頃沈没す、
この悪ガスの下に
手動ポンプにて排水につとむ、

一、沈下と共にメインタンクを
排水せり
灯り消えゲージ見えざるども
メインタンクは
排水し終われるものと認む

電流は全く使用するにあたわず、
電液は溢れるも少々、
海水は入らず
クロリンガス発生せず、
残気は五百ポンド位なり、
ただただ頼む所は
手動ポンプあるのみ、

ツリムは安全のため
ヨビ浮量六百
モーターの時は二百位とせり、


右十一時四十五分
司令塔の灯りにて記す




溢入の水に浸され
乗員大部衣湿ふ寒冷を感ず、
余は常に潜水艇員は
沈着細心の注意を要すると共に
大胆に行動せざれば
その発展を望むべからず、
細心の余り
萎縮せざらん事を戒めたり、
世の人はこの失敗を以て
あるいは嘲笑するものあらん、
されど我は前言の誤りなきを確信す、


一、司令塔の深度は五十二を示し、
排水に努めども
十二時までは底止して動かず、
この辺深度は十尋位なれば
正しきものならん、


一、潜水艇員士卒は
抜群中の抜群者より採用するを要す、
かかるときに困る故、
幸い本艇員は皆良くその職を
尽くせり、満足に思う、


我は常に家を出ずれば死を期す、
されば遺言状は既に
「カラサキ」引き出しの中にあり



(これ但し私事に関する事を
言う必要なし、
田口浅見兄よ
之を愚父に致されよ)



公遺言

謹んで陛下に申す、
我が部下の遺族をして
窮するもの無からしめ給わらん事を、
我が念頭に懸かるものこれあるのみ、


右の諸君によろしく(順序不順)
一、斎藤大臣 一、島村中将
一、藤井中佐 一、名和少尉
一、山下少将 一、成田少将


(気圧高まり
鼓膜を破らるる如き
感あり)


 
一、小栗大佐 
一、井出大佐
一、松村中佐(純一)
 一、松村大佐(竜)
一、松村少佐(菊)
(小生の兄なり)
一、船越大佐、
一、成田鋼太郎先生
一、生田小金次先生
 

十二時三十分
呼吸非常に苦しい
ガソリンをブローアウト
せししつもりなれども、

 

ガソソリンにようた

一、中野大佐、

十二時四十分なり、

・・・・


参考・引用
『教科書が教えない歴史』藤岡信勝 自由主義史観研究会 

・遺書(全文引用)
http://www.hokuriku.ne.jp/montanyu/sakuma100.htm
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戦前の美談ときくと、嫌悪を抱く人もいるかもしれません。「けしからん!戦争を賛美するのか!」とかね。

ここから何を学ぶのかは、人それぞれだと思います。

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台湾で神になった日本人 

今から100年以上前の話です。日清戦争に勝利した日本は、清国から台湾の統治権を得ました。

当時の台湾はとても治安が悪かったようです。そんな台湾に巡査として渡った日本人がいます。後に神としてまつられ、「義愛公」と名付けられる森川清二郎です。

森川は、台湾南部の台南州(現嘉義県)東石郷副瀬村の派出所に勤務しました。森川37歳のときです。森川は村人思いで一生懸命任務に当たりました。

こんなエピソードがあります。

あるとき、村人の一人が海にカキを捕りに入り、貝ガラで足を切ってしまいましたが、それを見た森川は海に入り、その人を背負って自宅まで送り届けました。森川自身も海に入ったときケガをしましたが、黙っていました。後にこれを聞いた村人たちは感泣したということです。(小松延秀『義愛公と私』台湾友好親善協会)

また、森川は当時正規の学校がなかったため派出所の隣に寺子屋設け、そこで村人たちに読み書きを教えていたようです。そのため村人たちからは「大人(ダイジン)大人」と呼ばれていたようです。

ある年、台湾総督府により漁業税が新たに制定されました。森川のいた村はもともと貧しく、新たな税金が課せられると生活ができなくなります。村人たちは森川に税金の軽減を嘆願します。
村人思いの森川は、その意を上司に伝えるべく台南州東石支庁を訪ね、税金の軽減を申し入れました。しかし、当時の支庁長は森川の願いを聞き入れないばかりか、森川が村人を煽動していると誤解し、森川を懲戒免職してしまいます。

森川は銃で自殺しました。1902年4月7日、42歳という若さでの死でした。
村人たちはたいそう悲しんだそうです。

それから20年余りたった1923年、森川のいた副瀬村周辺では、これらなどの伝染病が流行しました。ある晩副瀬村の村長が寝ていると、枕元に制服姿の警察官が立ち、伝染病を防ぐ為の手だてを村長に告げたと言います。村長はその警察官は森川に違いないと村人に伝え、村は伝染病の脅威からまぬがれたそうです。村人たちは森川に「義愛公」の尊称をつけ、ご神体を創りました。


今でも「日本の神様」として村人たちの信仰を集めているそうです。

参考・引用
『教科書が教えない歴史』藤岡信勝 自由主義史観研究会 

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台湾は親日の国といわれている。戦前に日本の統治下にあったにも関わらずである。
これはまさしく先人達の台湾に対する思いや努力の賜物である。

日本の統治が、西欧諸国のアジアやアフリカでの収奪を目的とした植民地経営と大きく違っていたことがこのことをみてもわかる。統治直後、総人口の0.5?0.6%だった台湾の学齢児童の就学率は1943年頃には70%にもなり、また終戦時には識字率が92.5%に登った。これを西欧諸国の植民地経営と同じ土俵で論じては正しい歴史認識はできない。

これからの日本に必要なのは、正しい歴史教育・歴史認識であろう。
特定の勢力により教科書の内容が歪められることはあってはならないことだ。
悪しき前例を作ってはならない。

沖縄集団自決をめぐる教科書問題の今後が気になるところである。


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