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五輪を開催する資格の無い中国 

中国共産党政府による人権蹂躙は止む事がない。このような状況で来年の北京五輪を開催して良いものか。中国政府は、直ちに人権蹂躙を止め、数々の悪事をすべて公表し、それに終止符を打つべきだ。

そして、中共による独裁をやめ、民主化を図り、生まれ変わるべきだ。そこまでなされれば、五輪を開催する資格があろう。しかし今のままでは、五輪開催などもってのほかだ。

中国で有名なのは天安門事件での大虐殺だが、チベットにおける虐殺、秘密収容所で生きた法輪功学習者や死刑囚の臓器の強制摘出は、現在進行形で行われている。(チベットの少年僧が射殺される映像などは余りにも有名である)

そこから考えると、彼らからは南京大虐殺なんていう発想は、人の命を屁とも思わない中共からなら、簡単に生まれてしまうのであろう。日本にはそんな発想がわく土壌がない。


日本は北京五輪をボイコットせよ。



中国による人権蹂躙の実態↓

中国甘粛省:ダライ・ラマ支持スローガンで、中高生逮捕・拘禁 
大紀元時報 2007/9/23 配信

ギリシャ・アテネでオリンピックと中国人権問題シンポジウム開く=法輪功迫害真相調査連盟 
大紀元時報 2007/8/10 配信   

チベットの人権の現状

有名なチベット僧射殺映像(一応のせておきます)

チベット虐殺は国内問題!?


・ダライ・ラマ法王日本代表部事務所HP
このHP内の人権問題項目に中共が行ってきたチベット虐殺の実態が詳しく記載されている。

一例
「釈放されてすぐに死亡」という謎」

 拘留、監禁中の拷問が原因で死亡する場合、はっきりとした特徴がよく見られる。囚人が過酷な拷問で死にかけていると、通常、入院か釈放である。たいてい刑務所内で死亡することはない。当局の過失をできるだけ最小限に見せかけるためである。拷問を受けている拘留中ずっと、何の治療もなく死亡するケースもよくある。TCHRD(チベット人権民主センター)が確認したところによると、1986年以来、出所直後、病院もしくは自宅で死亡したケースは、17人にものぼる。全員が拘留中に拷問を受けていたのだった。

■反動的な」ポスターを僧院に貼りつけたとして1997年に告発された僧、ジャンぺル・ティンレーは出所後たった4時間後に死亡した。暴行を受け拷問をされていた9日間のもの間、水、食料を一切与えられなかったと、ジャンペルは死ぬ間際、病院で友人たちに告げたのだった。刑務所内で生き埋めにされ、体が赤紫に変色したジャンペルを目撃した僧が数人いたにもかかわらず、当局から彼の死因について一切説明はなかった。

■ チャムド僧院の僧、ジャムヤン・ティンレーは、1996年の9月13日に釈放され、その5日後死亡した。25歳だった。
ジャムヤンは、1996年5月30日逮捕された。警官がジャムヤンの部屋で「反動的な」ビラを発見したのだ。チャムド刑務所で看守たちから4ヶ月もの間、過酷な拷問、暴行を受け、釈放時には、危篤の状態にあった。ジャムヤンの体を火葬前に見たチャムド僧院のある僧は、こう回想する。
「背中と首は電気を使った拷問のため、水脹れになっていた。とても酷く暴行を受けたのか、黒、青色の斑点が体中に見られた。腹部には血の固まりがところどころにあった。」

■ プルブ・ツェリンは1989年3月5日、ラサの非暴力抗議デモに参加した。その日のうちに公安当局に逮捕され、ジョカンのすぐそばの警察署内の拘留所で暴行を受けた。鉄棒で頭を強く殴打され、回復不能の重傷を負った。 その後ラサの人民病院に運ばれ、同日、親類たちは手術を受けねば助からないと知らされた。18日間もの間、昏睡状態に陥いり、半身麻痺状態のまま帰宅。それから痙攣をおこすようになり、1996年2月7日に死亡した。36歳だった。

■ ケルサン・テュトップはデプン僧院の民主運動地下組織のリーダー4人のうちの1人で、民主主義に関する小冊子「尊きチベット人権民主憲法」及び、「世界人権宣言」の訳文の地下出版に関わっていた。
これらの小冊子はその後、警察によって発見された。1989年11月30日、他の9人の僧とともに、彼は15年間ドラプチ刑務所で服役するよう宣告された。
「1996年7月4日の朝、ケルサンは尋問に連れて行かれた。 数時間後に帰ってきたが、彼は一言も口がきけなかった。看守たちに長く激しい暴行を受けたことは明らかだった。 彼は即時に刑務所内の病院に入院させられ、その翌日死んだ。」
と元政治囚、ジャンぺル・ツェリンは語る。

■ リンジンはンガリ、ムックルム・テューテ・ラプラン郡の出身で61歳だった。彼は3年間服役したが、ある情報筋によると、彼は1度も審理にかけられなかったという。
「中国当局がダライ・ラマの写真所持禁止令を公に発表してから長い間経ったにもかかわらず、リンジンは堂々とダライ・ラマの写真を祭壇に奉っていた。」とある筋。 3人の中国人官憲がダライ・ラマの写真所持について咎めた時、彼はこう言い返した。
「実際にダライ・ラマ法王にお会いすることなど叶わぬ願いというのに、写真ぐらい何だっていうのか 」 率直な性格が死を招く結果となった。  

リンジンは1ヶ月間、町の刑務所に拘留され、面会を拒絶された。報告によると、ンガリ刑務所に移送される前には栄養不良でひどく衰弱しきっていたとのことだ。拘留中、彼は結核を患った。
「リンジンが刑務所で一体何をされたか知るものは誰もいない」 とある筋。
「リンジンは1ヶ月間、刑務所内の病院に入院したが、その後状態が悪くなったので釈放され、その1ヶ月後に死亡した。 重病だったのでほとんど口がきけず寝たきりだった。 死亡したのは、1997年2月11日だ。 (ダライ・ラマ法王日本代表部事務所HPより引用)


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