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フィリピン独立戦争に命をかけた日本人 

好評だったので、戦前日本を知る手がかりとなる逸話をもう一つ。『教科書が教えない歴史』シリーズから。

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 フィリピンの国名の由来は、十六世紀末スペイン皇太子フィリップの名前をとったものです。フィリピンは三百年におよぶスペインの苛酷で巧妙な植民地政策により、言語や民族の文化、宗教までも失いました。国名だけでなく、ほとんどの人が名前もスペイン流に改名して現在に至っています。

 当時の世界は、白色人種によるアジア・アフリカ争奪戦の時代でした。アメリカはフィリピン独立を支援するとしてスペインと米西戦争を起こします。フィリピン独立軍もアメリカを支援し、アメリカが勝利しましたが、勝利したアメリカはスペインに代わってフィリピンを植民地としただけでした。今度はアメリカを相手に独立戦争が始まります。

 当時三十三歳のフィリピン独立軍総司令官リカルテは、外務長官を日本に派遣し、武器援助を求めました。アメリカからは日本の外務省に、武器援助をしないようにと圧力がかけられましたが、宮崎滔天、頭山満らの尽力によってフィリピンのためにと武器払い下げの決定を下されました。

 そして多くの武器弾薬を乗せた布引丸が長崎から出向します。船には、独立戦争をともに戦おうという日本人の義勇隊三人が同行していました。しかし、布引丸は出港二日後に台風に遭遇し沈没してしまいます。沈没しかけた布引丸の船長 石川伝は、義勇隊の林正文にこういったといいます。

「私は船長だから最期まで残る。しかし、義勇隊はここから逃れて、この様子を独立軍に知らせてくれ」

 しかし、林は「この船はただの貨物船ではない。フィリピン同胞の運命をかけた貨物船だ。このままにはできない」と言い船と運命をともにしました。救命艇に乗り移った船員や義勇隊員だけがイギリスの船に助けられました。

 結局日本からの武器がフィリピン独立軍の元に届くことは無く、リカルテ率いる独立軍はアメリカに敗れます。リカルテはグアム島に流され、その後香港に追放されます。それでもたった一人で秘密結社をつくり、新聞を発行します。その後日本で長い亡命生活を送ります。一九四一年(明治十六年)、日本の戦争遂行にあわせフィリピン独立を支援することになり、日本軍に同行したリカルテは、七十五歳にしてようやく祖国に足を踏み入れ、戦いの中で倒れます。

 そのフィリピンが正式に独立するのは一九四六年のことです。一九七八年の独立記念日、当時のマルコス大統領は、たくさんの日本人を招待し独立功労者という最高の栄誉を与えました。


この人たちは、一八九九年(明治三十二年)、フィリピン独立戦争支援に向かう途中沈没した貨物船布引丸の乗組員の子孫たちでした。



参考・引用
『教科書が教えない歴史』藤岡信勝 自由主義史観研究会 

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